「正しさ」を求め続け、手にした仮面
1. 華々しい経歴と、隠された欲望
高校は高偏差値進学校に入り、
大学は東京大学に入学。
そのまま数学科に進学したのち、
界隈では「日本一難しい試験」とも呼ばれる試験を突破して、
東京大学大学院数理科学研究科へ。
そして現在は国家公務員の道へ。
この経歴が自虐として機能する、無個性で、優秀な人間。
それが私だ。
正しくありたい。
その欲望が、いつだって私を動かしてきた。
2. 正義の使者、仮面ライダー
小学生の頃、「顔面殴っていい?」と友達に突然尋ねた私は、
冗談のノリで「いいよ!」と返した彼の顔面を、本気で殴り飛ばした。
もちろん、その後喧嘩になり、
別に腕っぷしが強かったわけではない私は敗北した。
その反省を生かし、暴力を振るわないような「正しい」人間になろうとした。
いいや。
そんな話がしたいのわけではない。
私は、ただ人を殴るにも、形式的に「許可を取る」人間なのである。
許可が出たのだから殴っていいでしょ?
「正しい」でしょ?
杜撰なロジックだが、そこに正しさへの執着があったことだけは間違いない。
私は人を殴らないことで正しくありたいのではなく、殴るなら正しく人を殴りたい。
そう思ったのだ。
私は仮面ライダーが大好きだが、この欲望と無関係ではないだろう。
3. 数学という、完璧な箱庭
突然だが、数学は正しい。これは間違いないと幼少期に確信した。
これを身につけることは、正しくあることに直結する。
どれほどの自覚があったかはわからないが、幼い頃から私は数学が大好きだった。
ある閉じた箱庭の中で、整合しているということ。
そのことへの異常な執着。
数学ではそれが可能、いや、むしろそれしか許されない。
それに比べて、現実世界は閉じた箱庭ではないし、整合もしていない。
はっきり言って無茶苦茶である。
しかし、世界を変えることはできない。
ならばどうするか。
箱庭を無理に区切り、その中で、自分についての整合的な物語を紡ぐ。
私が外界と正しく折り合いをつけるには、この方法しかなかった。
4. 台本どおりに狂う道化
他者の行為の、その意図を勝手に判定することは、一般にはできない。
一人称権威というものが働く余地がそこにはある。
それを逆手に取るならば、私自身の行為に関しては、
後から意図を捏造することがいつでも可能である。
そうであるどころか、意図などというものは、そのようにしか存在し得ないとすら言える。
捏造した意図を「本当」にしてしまえる唯一の存在。
それが私自身である。
私は、私の一挙手一投足を物語化することに余念がない。
物語には当然舞台が必要で、それは教室だったり、居酒屋だったり、国だったりする。
とにかく、ある区切られた箱庭(舞台)の中で、自身の行為を物語化し続けること。
その整合性の中で、自身を正しく位置付けること。
そのためならば私はどんな努力も惜しまずに生きてきた。
普通、人はちょっぴり平均からズレる。
それが自然な個性である。
私は自分がズレてしまったことを察知すると、ズレた理由を即座に捏造し、
「あえて」ズレたのだと物語化する。
ズレの方向性を誇張して「ポジション」を確保する。
これは人工的な個性と呼ぶべきものであり、誇張された「キャラ」である。
私はズレを矯正することで正しく(等しく)ありたいのではなく、
正しく(自分らしく)ズレたいのだ。
この人工的(防御的)個性には、先立つ箱庭が存在するため、
超えてはいけない一線は絶対に超えない。
あくまでその箱庭のルールの中で、正しく狂うのだ。
マナーは程よく踏み潰すが、ルールは潔癖に遵守する。
置かれた環境下で、「道化」として生きること。
それが、私の生存戦略である。
5. yamaglitchとは
ところで、「glitch」とは何か。
ゲームの文脈では、「バグを利用した裏技・戦術」として用いられる言葉だ。
私が上に述べたような「正しく狂おうとする」欲求は、
まさにその環境下での「裏技」を求める欲求に他ならない。
ルールは踏み越えずに、常識から正確に一歩だけはみ出る程度の狂い。
結果としてマナーに反する行為は起きるかもしれないが、
ハッキングをして人とは違うルールで生きてきたわけではない。
ルール内で理論上は誰でもアクセス可能なglitchが見える。
もしかすると、それが私の個性であり能力であるかもしれない。
まさに私の生き方を表した一語である。
6. 変わるもの、変わらないもの
AIの出現によって、社会という名の箱庭のルールは明確に変わる。
外部(物語・法・道徳など)によって担保される類の「正しさ」は、
この先我々の予想もつかない速さでその規準を変えるだろう。
その「正しさ」を担保する物語を紡ぐことすら、AIに丸投げされるかもしれない。
それをこの「Z+AI」という場の言葉で表現するなら、「人間は中心でなくなる」ということになる。
そして私はまさしく、そういった外部的な「正しさ」を求めていたのだから、
当然大きく振り回されることになるだろう。
私以外の多くの人間も、程度こそ違えど、「正しさ」の源泉を外部に求めているのではないだろうか。
そして皆、大きく振り回されることになる。
外部に「正しさ」の根拠を求めるような、私を含む多くの一般的な人間は、
最終的にその主導権をAIに受け渡し、自分で言葉を紡ぐことはしなくなってしまうのだろうか。
そうではない。
人間は人間であり続ける限り、言葉を、問いを、発し続ける。
そのとき拠り所となるのはもはや、外部の「正しさ」などではない。
求める求めないに関わらず、自らの内部に深く埋め込まれた、「根源的正しさ」のみが拠り所となる。
それをこの「Z+AI」という場の言葉で表現するなら、
人間は中心ではなくなるが「主体ではあり続ける」ということになる。
この「根源的正しさ」は、どんなに社会が移り変わろうが、変わらない。
変わらないから「良い」というわけではない。
単に定義上そうであるだけのことだ。
あなたには、この「根源的正しさ」の存在が実感できるだろうか。
7. 「Z+AI」における、私の「ポジション」
発せられる問いの意味が、
外部の「正しさ」を求めるものから、内部の「根源的正しさ」を示すものへと変わる。
これは、希望か、絶望か。
はっきり言って、私にはまだ、希望も絶望もピンとこない。
これからも私は、与えられた場所ごとにそれなりに「正しく」ポジションを確保していくだろう。
AIだって、専門家レベルではないまでもそれなりに「正しく」活用していくことだろう。
ただ、ここでの活動を通じて、私の目指す外部的「正しさ」が大きく変化することだけは間違いない。
そしてその変化はおそらく、一般社会に訪れる変化をちょっぴり先取りするものになるだろう。
「Z+AI」における私の存在は、一般社会を代表する人柱としての役割を果たす。
私の存在が、この異様な実験場と一般社会の間の緩やかな接続点(+)になることを、願っている。
だってそれが、この場における私の、「正しい」ポジションだから。