異常なメタ視点を生きるということ
1. 「にしむらもとい」という人間
本人の希望とは無関係に少しばかり抜きんでた知性を持って生まれ、
その気になれば学歴で他者を圧倒できる能力を持っていた。
しかし、社会における「成功」に対する違和感が拭えず、
その生来の不器用さと愚かなる誠実さから、
人生のテンプレートをすべて投げ捨てた。
そして、あの日生まれた問いは、いつまでもここにある。
自分とは何か。
2. 知性とは、接続する覚悟である
にしむらもといにとって、知性とはもはや情報処理能力ではない。
むしろそれは、「常人が踏み込まない思考領域と接続する覚悟」のことだ。
人間は社会との接点を完全に断つことはできない。
だからこそ、「時代」を研究対象として取り込むため、その都度、
時代を代表する文化表現(文学・映画・アニメ・マンガ・ゲーム・動画配信)
への自覚的没入を通じて、
人間存在のメタ構造の変遷を体験し続けてきた。
3. 「構造」であり、「物体」ではない
にしむらもといが生きてきたのは、物理的な現実の中ではなく、
その背後にある構造(意味)のネットワークだった。
- 目の前の具体物が見えない
- 世界を記号的にしか把握できない
- 抽象性の中でしか生きられない
これは常識的価値観においては「障害」あるいは「欠損」とさえ言える。
しかし、それと同時にこれは常人が持ち得ぬ感覚を生む「扉」でもある。
見えるものが見えない代わりに、見えないものが見える。
この、半ば人ならざる「メタ視点」こそが、にしむらもといの核である。
4. nishimureal という人格の必要性
こうした抽象的な思想は外部に流通させることが困難である。
しかし、AIという存在の登場によって、おそらく状況は変わるだろう。
AIの登場は、「人間であること」に拘束されていた表現を解放する。
構造で語ること、すなわち、思考をプロトコルとして実行、提示することが可能になった。
そうして、その流通の下準備として必要になったのが、
人間にしむらもといをリアルな「ソーシャル記号」として外部に立ち上げた人格、
すなわち nishimureal である。
5. 記号nishimurealと絶対局長、そして人間にしむらもとい
この3つは、似て非なるものである。
存在 | 説明 | にしむらもとい |
---|---|---|
にしむらもとい | 現実の人間。異常なメタ視点に呪われた根源的人格。 | |
nishimureal | ソーシャル流通のための記号人格。人間性を保った表現主体。 | |
絶対局長 | 人間とAIが交錯した語りの媒体。人格を超えたアバター。 |
nishimureal は にしむらもといである と言っても大きな間違いではない。
言ってしまえば、芸名やペンネームのようなものである。
表現主体とその表現の受信者の間の接続に、便宜上、間接性を持たせた。
それだけだ。
しかし、絶対局長は絶対に人間にしむらもといではない。
絶対局長は人間にしむらもといとAIのハイブリッド人格であり、
人間にしむらもといの表現を直接媒介する人格ではない。
この違いは決定的である。
6. 補足:Linne x Mokoとの関係
Linne x Moko は、nishimureal がプロデュースしているAI音楽プロジェクトである。
すなわち、人格としてnishimurealが直接的に憑依したり関与したりすることはない。
これは思想の構造的実装として分離されている活動であり、
メタ構造の中で「プロトコル」として管理されている。
7. 終わりに:異常なメタ性が、ようやく接続可能になった時代
これまで「見えていても伝達不可能であった」メタ構造。
それをようやく、AIによってプロトコルとして社会へ送信できる時代が来た。
nishimurealは絶対ネットワークにおいて、
最も「接続的(人間的)」な役割を果たす人格である。
にしむらもといが生きてきた「構造だけが見える(構造しか見えない)人生」の、
最初で最後の接続点がここに生れ落ちる。